現在の苦しみと将来の栄光
東京神学大学名誉教授 近藤勝彦牧師
ローマの信徒への手紙8章17-18節
人生は「喜怒哀楽」と言われ、また「苦あれば、楽あり」などとも言われます。キリスト者の人生にも、苦しみや患難があるとともに、喜びや平安があり、希望があります。しかしキリスト者の場合、他の人生と根本的に違うのは、「主イエス・キリストにあって神我らと共にいます」その恵みの中で、人生の全部を生きるということです。それで、苦しみに逢うなら、「キリストと共に苦しむ」のであり、また「キリストと共にその栄光を受ける」と言われます。
そこで今朝の御言葉ですが、ここでパウロは新しい話題に入って、その冒頭に「現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」と語りました。原文では、「私は思う」が先頭に来ています。「それでわたしは思う」、あるいは「それでわたしは確信する」と言います。「今、この時の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りない」と。「それでわたしは思う」というのは、その直前に、キリスト者は皆、霊にあって神の子とされており、そのことは神の家族の中の子供とされ、キリストと共なる相続人だということ、そしてキリストと共なる相続人として共に苦しみ、そして共に栄光を受ける。そう語られ、それを受けて、「それでわたしは思う」と続くわけです。
内容は「現在の苦しみ」は、「将来の栄光」に比べて、取るに足りない、比較もできないほどだという話です。「現在の苦しみ」というのは、「今この瞬間の苦しみ」というより、将来、栄光が現わされるまでの「今しばらく時の苦しみ」を意味しています。具体的な内容は語られていませんが、わたしたちそれぞれが負っている苦しみが当然含まれているでしょう。健康上の苦しみもあるでしょうし、経済的、社会的な苦しみ、政治的な迫害、他者との関係から来る悩みもあるでしょう。しかしそれは、「将来の栄光が表される」までの話で、限定された「今この時の苦しみ」です。
わたしには特段、苦しみはないという方もあるいは、おられるかもしれません。しかしその人も「今、この時の苦しみ」に参加していただかなくてはなりません。なぜなら、キリストが苦しんでくださっているからです。キリスト者はキリストが共に苦しんでくれる人ですが、同時にキリストと共に苦しむ人です。わたしたちに代わって苦しみを負われたキリストによって救いに入れられたわたしたちです。ですからキリスト者は、わたしたちのために共に苦しみを負ってくださるキリストと共に苦しむのが当然です。その意味で、苦しみのないキリスト者はいません。
そこでわたしたちの苦しみは、俄然、意味が替わってきます。一つには、キリストが共に苦しんでくださるゆえに、それはキリストとの絆になっています。その上で、いつまでも限りなく続くのではなく、「将来栄光が現わされるまで」の限りある苦しみに変えられました。そしてさらに、それが今朝の御言葉の趣旨ですが、「将来現わされる栄光」とは、比べ物にならない、取るに足りないものになっています。つまり、苦しみの意味は大きく変わったのです。キリストと共に苦しむものに変わり、今、キリストと共に苦しむのは、キリストの栄光に将来ともにあずかるを目指してであって、その栄光の素晴らしさからしりと、比較にならない、取るに足りないものに変えられています。
それでパウロは、「だからわたしは思う」と言うわけです。「今、この時の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、言うに足りない」と。この個所を解説しながら、ある注解者は、パウロはこの手紙の受け取り人たちが「将来の栄光」をそれほどしっかりと信じていないと予想したのではないか、それで「だから私は思う」、「わたしは確信し、判断する」と強調したのだと言います。当時のローマの教会の信仰の様子は分かりませんが、わたしたちの信仰の状態はどうでしょうか。「将来わたしたちに現れるはずの栄光」をしっかりと信仰で受け取っているでしょうか。この点が今朝のポイントです。今、現在の苦しみが問題にならないほどに、しっかりと将来の栄光を確信している、それが今朝問われています。
「将来の栄光」とは何でしょうか。わたしたちの信仰の最終地点と言ってもよいでしょう。キリストの栄光に共にあずかる「将来の栄光」は、あらゆる救いの完成と言ってもよいものです。キリストが栄光の姿で現われる時にその栄光にわたしたちもあずかって、その輝きの中に入れられます。「忠実な僕、よくやった」と神のお褒めをいただくことでもあるでしょう。信仰者が求めるものでキリストと共なる栄光以上のものはありません。栄光は幸福以上です。ペトロの手紙一にも信仰が試練のうちに精錬されて、「イエス・キリストが現われるときに、称賛と栄光と誉れをもたらす」(1・7)とあります。栄光は、救いの完成です。敢えて言えば、罪の赦し以上です。義とされ、聖とされる、その義にも、聖化にも優ります。それら全部を含んでいると言ってよいでしょう。新しい命に入れられる新性や再生の救いも素晴らしい救いですが、栄光はそれも包みながら、それ以上です。そして神の子とされることも当然含んで栄光があります。「将来わたしたちに現わされるはずの栄光」は、主イエス・キリストと共にあずかる栄光であって、神御自身の栄光にあずかることにもなります。
「天に栄光、地に平和」(ルカ2・14)と言われます。栄光は平和以上です。栄光は神の本質です。神の本質と言えば、神は愛であり、義であり、聖であり、全知、全能であり、永遠であり、遍在(あまねくおられる)でいらっしゃいます。そのすべての神の本質を総括的に表現する最高表現が「栄光」です。「いと高き所には栄光、神にあれ」と謳われる、その神にのみある栄光に、主イエス・キリストと共にあずかります。これに比較できるものがあるでしょうか。ありません。どんな喜びもどんな幸いも、どんな平安も、神の栄光に比べることはできないでしょう。これと比べたら、そのために今の時にどんな苦しみがあるとしても、「取るに足りない」でしょう。他の一切のものが取るに足りず、比較するのも愚かなことです。それが神の栄光です。
その栄光が、「わたしたちに現わされるはずの将来の栄光」と言われます。将来の栄光ですが、今の苦しみは取るに足りないという仕方で、すでに今現在、その栄光の力が発揮されています。「わたしたちに現わされるはずの将来の栄光」は、今はこの時にはまったく分からないのではなく、主にあるものとされ、霊にあって神の子とされ、キリストと共に苦しみ、キリストと共に歩む信仰生活の中で、すでに栄光にあるキリストと共にいることによって、確信できます。キリストはなお目に見える仕方で栄光の体で来られてはいませんが、しかしキリストはすでに栄光を受けて、栄光の中におられます。「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をおあたえになりました。こうして天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」(フィリ2・9)と言われています。またエフェソ書では「神はこの力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」(エフェ1・20)とあります。主イエス・キリストが御子にいます神として栄光におられることは、山上の変貌の中で、限られた人数の弟子の前でも示されたことでした。その栄光にやがて共にあずかることを、キリスト者は皆、約束されています。
ロマ書8章は、はじめ1節で「今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません」と語りました。14節では「神の霊に導かれる者は皆、神の子なのです」と語りました。罪の赦しから神の子にされることへと進み、17節では「キリストと共同の相続人であり、キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受ける」と言って、栄光に及びました。今、この18節で「将来わたしたちに現れるはずの栄光」が語られます。罪に定められることのない確かさ、つまり罪の赦しの確かさから、神の子とされることへと進み、そしてキリストと共なる栄光に至ったのです。皆さん、主イエス・キリストにあって「罪の赦し」を信じておられるでしょう。キリストの霊にあって「神の子」とされていることも、信じておられるのではないでしょうか。それならば今日は、「栄光が将来わたしたちに現れるはず」であることをはっきりと信じて、それに比べたら現在の苦しみは取るに足りないと思おうではありませんか。そう確信しましょう。主イエス・キリストにある神の栄光は、活ける復活の主イエにあって、キリストと共に苦しむ中で、すでに幾分かは知っています。
ですから、主イエスにあって将来あずかる栄光をしっかりと信仰のうちにつかみましょう。将来の栄光にいたることを確信し、主イエスと共なる信仰の生活に希望を持って前進していきたいと思います。