神の相続人とは
東京神学大学名誉教授 近藤勝彦牧師
ローマの信徒への手紙8章15-17節
信仰の話はどこから始まり、どこで終わるのでしょうか。わたしたちの信仰の初めと言えば、神様を信じる信仰を求めはじめることからでしょう。人によって、また置かれた環境によって、色々な始まり方があると思います。自分で自覚的に救いを求める方もおられるでしょうし、はっきりした理由を自覚するまえに、教会に通い始める方もおられると思います。始まりはさまざまでも、共通して言えますことは、教会での礼拝に参加して、聖書の御言葉を聞き、信仰を求めて祈り、そして導かれて洗礼を受けます。洗礼を受けることが、信仰の歩みの到達点かというと、そうでなく、それは実は信仰の歩みの出発点に立ったことで、信仰生活が本格的に始まるのは、そこからだと知らされます。そこからどういう信仰にまで進んだら、わたしたちの信仰の話は目標に達するのでしょうか。
今朝お読みいただいたロマ書8章15節には「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」とあります。
「霊を受けた」という表現は、「洗礼を受けた」のと結びついていると考えられます。洗礼を受けることで、神の霊をうけ、そして「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶ」とあります。信仰のはじめは、わたしたちの不安から始まったかもしれません。自分の人生に生き甲斐がなかった、人生は何のためか分からなかった、あるいは絶望していたかもしれません。しかしそれが、主イエスを知り、洗礼によって主イエスに結ばれ、「父よ」と祈る信仰を与えられ、主にあって神我らと共にいますと知るようになりました。ということは、不安な自分、生き甲斐もなく、喜びもなく、絶望しちた自分ではなくて、神を信じて「天の父よ」と呼ぶ神の子とする霊を受けて、「神の子」とされたわけです。
何時のことだったか正確には思い出せませんが、学生時代でなく、すでに牧師になっていたと思うのですが、「信仰の話は神の子とされたというところまでくれば終わる、目標に達したのです」といった文章に触れて、納得したことがあります。悩みある自分、罪ある自分が、主イエス・キリストの贖いを通し、
罪を赦され、「神の子とされた」。それは「我恵み汝に足れり」と言われていることでもあり、とても素晴らしいことで、「神の子とされた」と分かったら、もうそれ以上のことはいらない、その恵みに満ち足りてよい。信仰の話は、ここで終わってよい、そう思いました。
それに間違いはないと、今でも思っています。ですが、今朝の聖書の御言葉は、その「神の子とされたこと」の中に、どういうことが含まれているかをさらに語っています。信仰の歩みの奥深さを思わないわけにいきません。「神の子とされたこと」がわたしたちに与えられた決定的な救いですが、この救いの中には、さらにどれほどのことが含まれているか、今朝はその一端を学び深めたいと思います。
まず言われていますことは、「子とされた」というのであれば、あなたは「神の子供」ですと言われます。「もし子供であれば」と17節にあるとおりです。「子とされる」(ヒュイオセシア)と言う方は、実子ではないけれども、子としての身分・処遇が与えられるという響きの言葉です。ですが、「子供」(テクナ)とあるのは、家に生まれた子供、神の家族の中に新しく生まれた子供です。「子とされた」には、法による揺るぎない守りを感じ取ることができますが、「子供」は神の家族に生まれ、その一人として迎えられている交わりの温かさがあります。子とされたのは、神の家族の一員に加えられたのあって、地上の教会も天上の教会も含めて皆、そして一人一人神の家族のうちにあります。
「神の子とされた」ことの内容は、さらに続きます。神の家族の中に新しく生まれた「子供」であるだけでなく、そうであればまた「神の相続人」
(クレロノモイ)でもあるというのです。主にあって神を信じる者とされた人は、洗礼を受け、聖霊を受けて、神の子とされました。そのことは、神の家族に新しく生まれた子供とされたのですが、そうであればまた神の相続人にもされたというのです。将来、時が来れば、神のものを継承する人とされています。この言葉は聖書の他の箇所にも出て来ます。エフェソの信徒への手紙にも、「前もって定められ、約束されたものの相続者とされた」(1・11)とあり、「御国を受け継ぐ」(1・14)とも言われます。ペトロの手紙一にも「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(1・4)とあります。「神の子とされた」ことの中に「神の相続人」であることが含まれているわけです。将来に向けて大きな希望があり、その中に生かされています。古代イスラエルなら、相続人は長男の特権でした。それでヤコブは兄エサウの相続権を「肉鍋」によって奪いました。しかし神の恵みの福音にあっては、相続権の争いはありません。すべて主にある者、霊にある者、そして神の子とされた者は、皆、例外なく、神の相続人とされます。神の相続人の相続権は決して奪われることはありません。それは「キリストと共同の相続人」とも言われます。キリストが共にいて、一緒に相続してくださいます。
わたしたちが神の子とされたこと自体が、キリストにより、キリストと共にあって「子とされた」わけです。そこに含まれた「神の相続人」も従って
キリストにあり、キリストと共にあっての「相続人」です。ですから、「キリストと共同の相続人」と言われます。
それにしても使徒パウロが信仰の真理を筋道を立て、実に整合的に語っていることが分かります。神の子とされたことが神の子供たちにされたことであり、神の相続人、それもキリストと共同の相続人にされたと進みます。そしてそこから、信仰者の最後の姿に進んでいきます。
それはそれはこの段落の終わりの言葉、17節、その最後です。「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」。ここに「キリストと共同の相続人」のあり方と何を相続するかも記されています。キリストにある者として、キリストに結ばれた生活を今も、そしてこの先も歩みます。そしてその
とき、今は、なお苦しみの中を歩むことがある。しかしそれは自分一人の苦しみや不安ではありません。キリストと共に苦しむのだと言われます。
「キリストと共に」ということを考えてみますと、わたしたちの方から、主イエスにむかって、主よあなたのための苦しみをわたしにも負わせて下さいということもあるかも知れません。しかし主イエスの方から圧倒的に言われているのではないでしょうか。あなたの苦しみはあなただけで担うのではない。あなたの苦しみを私が共に担っている。キリストと共同の相続人は、苦しみを主イエスと共有すると言うのです。
そうであればまた「共にその栄光をも受ける」とあります。これはどう理解できるでしょうか。「キリストと共にその栄光を受ける」というのは、わたしたちの方から、主よ、あなたの栄光をわたしも受けますと言うのでしょうか。それよりは主イエス・キリストが言ってくださるでしょう。わたしたちの苦しみを代わって負ってくださる主ですから、主は苦難を共に担い、「わたしの栄光を共に受けよ」とおっしゃってくださいます。「共にその栄光をも受ける」とあるのは、主イエス・キリストの御意志であり、神の御意志です。主イエスは、御自分が受ける神の栄光を共に受けよと言われ、そしてそのようにしてくださいます。
「キリストと共にその栄光を受ける」というところまで話が進めば、信仰の話は目標に達したということができるでしょう。これ以上のことはないと言ってもよいのではないでしょうか。どんなに空想をたくましくしても、キリストと共に神の栄光を受ける、これに優ることを考えることはできません。主イエスにあって、また霊にあって神の子とされたということは、今は、苦しみをキリスト共に苦しむ幸いに生きて、やがて主の日には神の栄光に主イエスと共にあずかります。
もうすでに今、その栄光を受け始めているとも言えるかもしれません。なぜなら、共に苦しみを担ってくださっている今日の主イエス・キリストは、活ける復活の主イエス・キリストとして苦難に打ち勝っておられるからです。やがてはっきりと目に見える栄光のキリストと共に、わたしたちも神の栄光にあずかります。そのことにアーメン、その通りですと言えるのは、キリストの霊によってです。その人は、またかならずハレルヤと言うでしょう。霊によってアッバと呼ぶキリスト者は、神の子とされた人であり、主の約束の言葉、「共にその栄光を受ける」に対しても、アーメンと言い、その確信のゆえにハレルヤと言います。
聖なる天の父なる神様、主イエス・キリストの贖いを通し、あなたの霊によって、あなたの子とされ、主イエス・キリストと共なる相続人にさせていただいたことを、感謝いたします。主キリストと共に苦難を受け、主キリストと共にあなたの御栄光にあずかるとの御言葉に身の震える思いがいたします。受けるべき苦難を主イエスと共にしっかりと受け、主イエスと共にあなたの御栄光を受け継ぐことができますように、あなたの深い恵みに応えて生きる信仰に歩ませてください。世に生きるすべてのキリスト者が、あなたの御栄光の証し人となることができますよう、御霊の力づけを願います。御子イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。